壁に直面して、初めて見えた足元

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売上規模が30億円に到達し、上場という目標が現実味を帯び始めていた33歳頃。清田英輝氏は、会社をさらに次の段階へ進めるため、より積極的な挑戦に踏み出していました。

そのタイミングで、知人の経営者を通じて、ある新規事業の話が持ち込まれます。それは「日本の未来を変える」という大きなビジョンを掲げた、AI防犯カメラ関連のスタートアップでした。

当時、日本国内に設置されている防犯カメラの数は約500万台とされていました。中国などの国と比較すると、その普及数は決して多いとはいえません。背景には、日本人ならではのプライバシー意識があります。「常に見られているようで抵抗がある」という感覚が、防犯カメラの導入をためらわせる要因になっていました。

その課題に着目したのが、このスタートアップの事業でした。

カメラ映像には通常時モザイク処理を施し、AIが異常を検知した場合にのみ映像を確認できる仕組みをつくる。平常時の映像には、たとえ代表者であっても簡単にはアクセスできない。プライバシーを守りながら、防犯性も高めるという構想でした。

さらに代表者は弁護士であり、法的な観点からも信頼性を感じさせる体制が整っているように見えました。加えて、月額1,500円というサブスクリプション型の料金設定により、これまで導入が難しかった一般家庭や中小企業にも広げられる可能性がありました。

清田英輝氏は、この話を聞いて強く惹かれます。

「これは非常に面白い事業だ」

社会課題を解決しながら、成長性も見込める。そう感じた清田氏は、このスタートアップに大きな可能性を見出していきました。

3,000万円の出資に込めた期待

それまで清田英輝氏が関わってきたM&Aは、すでに一定の価値を持つ企業を取得し、そこに自社の強みを加えて成長させていくものでした。既存の事業をさらに伸ばす、いわば「磨き上げる」スタイルです。

一方で、ゼロから大きな市場をつくろうとするスタートアップに関わるのは、清田氏にとって初めての経験でした。

「100億円企業を目指すなら、もっと大きな世界を知らなければならない」

そんな思いもありました。もし成功すれば、数千億円、あるいはそれ以上の規模に成長する可能性もある。そのスケール感に、清田氏は強く心を動かされていました。

当時、その事業に対する出資額の最高額が3,000万円だと聞いた清田氏は、その場で決断します。

「それなら、自分も3,000万円を出す」

単に資金を出すだけではありませんでした。自社が持つ営業力も提供し、株主でありながら営業パートナーとしても関わる形で参画することになります。発起人たちもその姿勢を歓迎し、清田氏は大きな期待を抱きました。

同じ熱量で「一緒に世の中を変えよう」と語り合える仲間ができた。そう感じた清田氏にとって、その出資は単なる投資ではなく、新たな挑戦への参加でもありました。

少しずつ見え始めた違和感

当初、事業は順調に進んでいるように見えました。大手企業からの資金調達の話も動き始め、シード段階から次のシリーズへと進んでいく計画も具体化しつつありました。

あとは販売台数を伸ばしていくだけ。
清田氏はそう考えていました。

しかし、その矢先に違和感が生まれ始めます。

清田氏側が提案したインセンティブ設計や料金プランについて、当時の取締役たちは一度了承し、その内容に基づいて販売が進められていました。ところが、ある時期から「そのようなプランは承認していない」という声が出始めます。

認識のずれが生じ、お金の流れについても不透明に感じられる部分が見え始めました。

やがて、代表者による不正な取引があったという主張が外部に広がっていきます。

清田氏のもとには、毎日のように長文のメッセージが届くようになりました。その数は1日10通を超えることもありました。会社のホームページやニュースサイトにも関連する情報が掲載され、清田氏は状況を収めようとしましたが、流れを止めることはできませんでした。

そして、インターネット上には「清田英輝氏が詐欺をした」とする情報まで広がっていきます。

清田氏にとって、それは身に覚えのないものでした。

「自分はやっていない。だから、認めることはできない」

そう考え、正面から向き合おうとしました。しかし現実は、本人の思いとは別の速度で進んでいきました。

信用が崩れていく連鎖

ネット上に広がった情報は、金融機関にも届いていました。

口座が利用できなくなる。
融資審査が通らなくなる。
新たな口座開設も難しくなる。

金融機関の窓口では、「この状況では対応できない」と告げられました。清田氏は事情を説明しましたが、すぐに状況が変わることはありませんでした。

ローンも通らず、口座も作れない。これまで積み上げてきた信用や事業基盤が、少しずつ崩れていくような感覚がありました。

心身への影響も大きく、体重は75キロから56キロまで落ちたといいます。食事がまったく取れなかったわけではありません。ただ、精神的な消耗が大きく、日常を保つ気力が追いつかなくなっていました。

周囲からは「大丈夫か」と声をかけられていました。けれど、その頃の清田氏には、その言葉すら遠くに聞こえていたといいます。自分に起きていることを、まだ受け止めきれていなかったのです。

さらに、別の痛みも重なりました。

苦しい状況の中で、清田氏は仲間に頭を下げ、「助けてほしい」と伝えました。しかし、返ってきたのは支援の手だけではありませんでした。身近なところから、事業だけを切り離して持っていこうとする動きが起こったのです。

長年ともに歩んできたと思っていた相手からの行動に、清田氏は大きなショックを受けました。

「信じたくなかった」

そう振り返る一方で、清田氏はこうも語ります。

「でも、それも自分が招いたことだった」

どん底で学んだ、足元を見るということ

深い苦境の中で、清田英輝氏は少しずつ自分自身と向き合うようになりました。

それまでの自分は、上ばかりを見ていた。売上の成長、大きな目標、右肩上がりの数字、上場という未来。そうしたものを追う一方で、足元への意識が薄れていたことに気づきます。

人に任せすぎていた。
確認を怠っていた。
現場の実態から目をそらしていた。

「社長は孤独なものだ」
「任せることが経営者の仕事だ」

そう自分に言い聞かせながら、本当に見るべきものを見落としていたのかもしれません。

問題が起きたとき、最終的に責任を負うのは社長です。会社の規模が大きくなればなるほど、ひとつの判断が社員や取引先、関係者に大きな影響を及ぼします。

それを分かっていたつもりで、実際には十分に分かっていなかった。清田氏は、そう振り返ります。

「自分が悪かった。自分が変わらなければいけない」

その言葉を言い訳なしに受け止められるようになったのは、すべてが大きく崩れた後でした。

2024年末から2025年にかけての約1年半、清田氏は会社と自分自身の整理を続けました。人を送り出し、事業を絞り込み、自分のあり方を見つめ直す時間を過ごしました。

その過程を経て、ようやく経営者としての責任の重さを、本当の意味で理解できたといいます。

「ようやく、ちゃんとした経営者になれた一年目だったと思っています」

現在の清田英輝氏は、その先の二年目を歩んでいます。

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